若いころの僕は、強いほうが正しいと思っていた。
会議では、知っていることは全部出した。
相手の意見に疑問があれば、正面からぶつけた。
論破しようと思っていたわけではない。
でも、結果的にそうなっていたと思う。
事は進んだ。
評価ももらった。
子どもたちからの反応も悪くなかった。
でも、どこかつまらなかった。
仕事は回る。
でも、なんとなく孤立している。
成果は出る。
でも、帰り道が静かすぎる。
「成果は出しているのに、なぜか虚しい」
いま振り返ると、あの感覚が、僕の最初の違和感だった。
ある日、よく一緒に過ごしていた同僚が、突然僕と距離を置いたことがある。
理由は、僕のひとりよがりな行動だったらしい。
当時は自覚がなかった。
でも彼にとっては、裏切られたような気持ちだったのだと思う。
あのとき失ったものは大きい。
成果よりも、信頼のほうが重かったのだと、 ずっとあとになって気づいた。
僕は一時期、授業づくりも一人で突き進んでいた。
自分なりの理想を追いかけ、準備も工夫も全部自分でやる。
子どもたちの反応は悪くなかった。
でも、チームとしての一体感はなかった。
教育は個人競技ではない。
それを、僕は長い時間をかけて学んだ。
事は進む。
でも、つまらない。
その正体は、協働の欠如だった。
転機は、意外と日常の中にあった。
職員で参加した大会や行事で、 「あーだこーだ」と言いながら方向性を揃えていく時間が、やけに楽しかった。
情報を共有し、役割を話し合い、 うまくいかなくても笑い合える。
あれが、チームの力だった。
40代に入って、ようやくわかった。
強さよりも、聴く力のほうが、場を回す。
先日、重要な会議で進行役を任された。
昔の僕なら、知見を前面に出していただろう。
でも今回は違った。
僕の役割は交通整理役。
「みなさん、どうでしょうか」
「〇〇さんはどう思いますか」
うなずき、聴き、復唱する。
多少、自分の所見と違う結論もあった。
でも、方向性は合っている。
重大な誤りではない。
何より、みんなで決めたことに意味がある。
終わったあと、不思議と清々しかった。
目立っていない。
主張も最小限。
でも、満足していた。
ああ、これが協働か、と思った。
数年前、ある先輩から言われた言葉がある。
「おたがいさま」
誰かが困難に直面したとき、 体調を崩したとき、 思うように動けなくなったとき。
「明日は我が身。おたがいさま」
人生は思い通りにはいかない。
予期せぬ出来事は、誰にでも起こる。
だからこそ、 いま動ける自分が、動けない誰かの分を少し担う。
それが「おたがいさま」だ。
若いころの僕は、自分さえよければよかった。
いきがっていた。
強さで押していた。
それでもいい。
若いときは、そういう時期があってもいい。
でも、いつか気づく日が来る。
一人で勝つより、 みんなで決めたほうが、ずっと気持ちがいい。
強くあるより、 聴けるほうが、長く続く。
失敗はたくさんする。
衝突もある。
でも大丈夫。
その痛みは、あとから必ず、 協働の意味を教えてくれる。
いまの僕も、完璧じゃない。
承認欲求も湧くし、 ときどき熱くなる。
それでも、自分の価値は、自分でつくる。
チームは、強さよりも聴く力で回る。
迷っている君へ。
焦らなくていい。
いきがってもいい。
でも、その先にある景色を、どうか忘れないでほしい。